盛岡城

撮影日:2003年12月11日

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01・淡路丸西石垣

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02・吹上門跡

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03・淡路丸(馬場跡)、本丸石垣

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04・本丸御末門跡

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05・御末門跡

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07・堀切と廊下橋

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06・本丸〜二の丸石垣

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08・二の丸〜本丸石垣

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09・二の丸車門跡

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11・吹上三社台石垣

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10・二の丸石垣

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12・淡路丸二階櫓石垣

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13・二階櫓石垣

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14・台所跡、本丸、二の丸石垣

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15・本丸石垣、二の丸石垣

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16・堀切と廊下橋

☆名称(別称)

盛岡城 (不来方(こずかた)城)

☆所在地

岩手県盛岡市内丸

☆地図

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☆創築者、創築時期 

   (改修者、改修時期)

文禄元年〜寛永12年(1592〜1635年、南部信直〜利直〜重直)

※築城説については、他に慶長2年(1597年)、慶長3年(1598年)説があります。

 

☆城主

南部氏

☆遺構・復元物

本丸、二の丸、石塁、土塁、堀。

☆一言歴史

 南部藩初代藩主である南部信直は三戸城主22代政康の孫で田子城主南部高信の長男として生まれました。三戸南部氏24代晴政になかなか男子が生まれなかったために25代を継ぐことが決まりかけていました。ところが晴政に男子が出生したため信直は辞退し田子城に帰り、25代は晴継になりました。その後晴継は暗殺され、宗家三戸城の跡継ぎが不在となったことから南部一族の熾烈な相続争いが勃発しました。それでも、一族の会議で田子城主になっていた信直が26代に決定しました。

 しかし、九戸政実がこの決定を不服とし、信直と対立するようになります。同時にこの頃支配下であった津軽の大浦為信が反乱し津軽領は奪取されてしまい、先んじて豊臣秀吉に領土として認められてしまいました。南部氏は家臣(というか身内)の争いが絶えず、小田原に参陣したその隙を狙われる可能性もあったわけで、それも大浦氏に後れを取った要因の一つといえるでしょう。

 

 天正18年(1590年)南部信直は小田原討伐に来ていた豊臣秀吉に謁し、大浦為信に奪われた津軽三郡を除いて所領を安堵されました。代わりに現岩手県南域が与えられましたが、居城の三戸城が北に寄り過ぎているため、新たに不来方の地を選定し、文禄元年(1592年)より築城を開始し、慶長14年(1609年)頃までにはほぼ出来上がりましたが、最終的には南部藩3代目の重直の時まで30年近くかかってやっと完成しました。

 

 寛文11年(1634年)には、落雷により本丸が焼失してしまい、支城の福岡城を破却し、その材料を使用して新たに御新丸を造り、そこを仮の居所としました。寛文13年(1673年)にようやく幕府の許可を得て、延宝8年(1680年)に本丸を再建しました。その後もたびたび水害などで改修が行われているようです。

☆私的見所

 東北地方では会津若松城白河城と共に石垣の見事さがなんといっても目を惹きます。堀が埋められてしまっているせいもあり、盛岡の市街地の中にいきなり石垣が現れるという感じで、そのギャップがまた面白いと思います。

 現在は城郭全体が国の史跡に指定され岩手公園になっています。案内表示がもう少し詳しく書いてあるといいのですけどね。盛岡駅からは徒歩20分くらいですが、思ったより距離があります。

   

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