土浦城 (亀城)

撮影日2006年4月23日

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01・縄張図

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02・縄張図

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03・東櫓、内堀

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04・聖徳太子堂

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05・旧前川門

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06・旧前川門

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07・二の丸

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08・本丸表門

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10・本丸東櫓

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09・本丸表門

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11・本丸西櫓

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12・本丸東櫓

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14・本丸土塁

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13・霞門

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15・本丸東櫓、霞門

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16・本丸

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18・本丸西櫓

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17・本丸表門

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19・本丸西櫓

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20・本丸東櫓、霞門

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21・本丸表門、西櫓

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22・土浦城図

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24・階段

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23・東櫓一階

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25・東櫓二階

 

☆名称(別称)

土浦城 (亀城)

☆所在地

茨城県土浦市中央1丁目

☆地図

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☆創築者、創築時期 

   (改修者、改修時期)

永享年間(1429〜41年)、若泉(今泉)三郎 創築か?

慶長9年(1604年)、松平信吉が城下町整備と北、南、西の各門を造営

元和6〜7年(1620〜21年)、西尾忠昭が東櫓、西櫓造営

明暦2年(1656年)、朽木稙綱が本丸御門を櫓門に改修し、時を知らせる太鼓を備える

寛文9年(1669年)、土屋数直が新曲輪を築く

天和2年(1682年)、松平信興が真鍋口の馬出、霞門、霞橋、外丸などを築く

明治4年(1871年)、破城

明治17年(1884年)、東櫓、本丸御殿などを焼失

明治18年(1885年)、前川門を土浦戸長役場の表門として移築

明治38年(1905年)、外丸旧藩主邸を焼失

大正9年(1920年)、旧前川門を等覚寺へ移築

昭和24年(1949年)、キティ台風により本丸西櫓が破損

昭和25年(1950年)、復元を前提として本丸西櫓を解体

昭和27年(1952年)、城跡、本丸櫓門を県史跡として指定

昭和31年(1956年)、本丸、二の丸を亀城公園とする

昭和55年(1980年)、等覚寺山門となっていた旧前川門を二の門跡に移築復元

昭和60〜63年(1985〜88年)、本丸櫓門を解体修理

平成3年(1991年)、本丸西櫓を復元

平成10年(1998年)、本丸東櫓を復元

☆城主

若泉(今泉)氏 - 菅谷氏(小田氏家臣) - 結城氏(城代) - (藤井)松平氏 - 西尾氏 - 朽木氏 - 土屋氏 - (大河内)松平氏 - 土屋氏

☆遺構・復元物

本丸、二の丸の東部と南部、太鼓櫓(櫓門)、霞門、前川門、本丸二の丸東部南部の土塁と堀が現存。本丸西櫓、東櫓、本丸土塀などを復元(東櫓は完全な復元ではないらしいです)。

城跡、太鼓櫓は県史跡、前川門は市史跡で、本丸、二の丸の東部と南部は亀城公園となっています。

☆一言歴史

 永享年間(1429〜41年)に、若泉(今泉)三郎が築城したといわれていますが、はっきりとわかっていません。

 

 のちの永正13年(1516年)には、小田氏家臣の菅谷勝貞に攻められ、若泉氏は滅亡しました。このときに城が改修されたことも考えられます。このまま小田氏の支城として、菅谷氏が城主となり結城氏や佐竹氏と戦いを繰り広げました。

 永禄7年(1564年)には上杉・佐竹氏により、小田城が落城したため、小田氏治がこの土浦城へ逃れ奪還を繰り返しますが、同12年(1569年)の手這坂(てはいざか)の戦いで敗走し、以後は小田城奪還はかないませんでした。

 

 そして天正18年(1590年)、豊臣秀吉が小田原攻めに来ていた時、城主であった菅谷憲政は参陣しなかったために退隠させられてしまいます。同年、北条氏滅亡後徳川家康が関東移封となると、土浦城は結城城主であった結城秀康の支城となります。

 さきの菅谷氏はのちに5000石を与えられ、徳川家康の旗本として復活したようです。

 

 関ヶ原の戦いの翌年、慶長6年(1601年)に結城秀康が越前北庄城移封に伴って、松平信一が3万5千石で土浦城主となりました。信一と子の信吉のときにかけて城下町が整備されました。

 元和3年(1617年)信吉が高崎へ移封となると、西尾忠永が城主となり、子の忠昭が元和6年(1620年)から修築をはじめ、東西の櫓を築いたようです。

 城主が目まぐるしく替わるたびに土浦城は修築・拡張され、貞享4年(1687年)に土屋氏が再度城主となった時にはほぼ完成されていたようです。

 

 明治4年(1871年)に廃城となりました。

☆私的見所

 茨城県内では唯一建築物の遺構がある城です。やや公園化が進んではいるものの関東に多かった土塁と堀の城という雰囲気は十分に残っています。関東の譜代の城はほとんどが徹底的に破壊されているので貴重な存在といえると思います。

 なお、本丸東櫓は正確な復元ではないので、復興と言った方が正しいかもしれません。東櫓は、内部が公開されていて、資料館となっています。

 また、今回より使用してみた「autostitch demo version」というソフトですが、以前使用していた「ACDsee photo stitcher」よりも繋ぎ目がきちんと補正されていて、デモバージョンとはいえ、とてもよくできたソフトです。建築物などに使用すると直線部が歪曲してしまうという欠点がありますが、繋ぎ目が良く補正されている利点が捨てがたく、こちらのソフトをこれから使用していこうと思っています。

 

※近隣・関連史跡など

→小田城へ

 

   

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