大垣城

撮影日:2004年9月4日

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01・石垣

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02・麋城の滝

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03・鉄門跡

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04・土塀

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05・模擬西門

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06・本丸

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07・天守、本丸乾隅櫓

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08・戸田氏鉄像

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09・復興天守

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10・案内板

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11・艮櫓

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12・本丸石垣

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13・旧戸田邸表門、艮櫓

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14・旧戸田邸表門、艮櫓

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15・艮櫓

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16・土塀

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17・本丸乾隅櫓

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18・本丸乾隅櫓、水の手門跡

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19・本丸石垣

 

☆名称(別称)

大垣城 (巨鹿城)

☆所在地

岐阜県大垣市郭町

☆地図

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☆創築者、創築時期 

   (改修者、改修時期)

(説1)明応9年(1500年、竹腰(竹越)尚綱) 創築?

(説2)天文4年(1535年、宮川安定) 創築?

永禄2年(1559年、氏家直元) 改修(説3、創築?)

天正18年、文禄4年〜慶長元年(1590年、1595〜96年、伊藤祐盛) 改修

慶長18年(1613年、石川忠親) 拡張(総堀)

元和元年(1615年、松平忠良) 改築(天守)

寛永18年〜慶安2年(1641〜49年、戸田氏鉄) 改築(門など)

☆城主

竹腰氏?・宮川氏? - 織田氏 - 竹腰氏 - 氏家氏 - 池田氏 - 木下氏(後の豊臣秀次・秀長) - 加藤氏 - 一柳氏 - 豊臣氏 - 伊藤氏 - 石川氏(康成家) - 松平氏(久松、康元家) - 岡部氏 - 松平氏(久松、定綱家) - 戸田氏

☆遺構・復元物

 本丸周辺の石垣が一部現存し、外堀が水門川として現存しています。旧城主戸田邸の表門が大垣城址公園の表門として移築され現存しています。ほかに市内5箇所に大垣城の城門が移築されて現存しているとのことです。

 また、本丸艮(丑寅)櫓が昭和60年に外観復元され、四重の天守は外観復元と言いたいところですが、復興にしておきます。お城にガラス窓というのは反則でしょう(笑)。同じく本丸の乾(戌亥、水の手)隅櫓も復興です。大垣城址公園の西門は本来全く無かったもので、模擬の門です。

☆一言歴史

 前出のように創築時期については諸説あるようです。私の持っている資料(書籍?)からは3説掲載されておりました。一つ目は美濃守護土岐氏の被官竹腰尚綱が、前出のとおり明応9年(1500年)に創築したという説と、二つ目土岐氏の一族である宮川安定が天文4年(1535年)に、この地の豪族大垣氏の砦を奪い城を築いたともいわれています。三つ目は、氏家直元が永禄2年(1559年)に築城したという説です。いずれにしても我々は真相を知ることは不可能なようです。

 天正10年(1582年)に当時羽柴秀吉の家臣であった池田恒興が城主となりますが、小牧長久手の戦いで恒興が戦死し、子の輝政が城主となります。池田輝政の後は頻繁に城主が変わり、伊藤祐盛の時に天守が築かれたようです。

 子の盛宗の時に関ヶ原の戦いが起こり、伊藤家は西軍につきます。その時西軍の石田三成らが大垣城を本陣にして作戦会議を行ったことは有名です。大垣城は水野勝成軍により攻撃され、3日間の籠城むなしく落城します。

 関ヶ原の戦いの結果はご存知のとおりで、要衝である大垣城には徳川方の大名が城主となり、頻繁に変わっていきます。寛永11年(1634年)に戸田氏鉄が尼崎城から10万石で入封すると、寛永18年〜慶安2年(1641〜49年)にかけて、城を整備拡張します。当時の絵図からは堀で何重にも囲まれていて、かなりの大城郭であったことがわかります。戸田氏はそのまま明治まで世襲していきました。

 大垣城は明治3年(1870年)以降、次々と建物が取り壊されていき、堀も埋め立てられてしまいます。旧藩士らの保存運動によって天守と艮櫓はかろうじて残り、旧国宝にも指定されましたが、太平洋戦争の空襲によって焼失してしまいました。

 現在の天守は昭和34年(1959年)に外観を似せて(窓が・・・)作られました。堀がほとんど残っておらず、また城のすぐ近くにまで住宅地となっているため、古写真で見た堀で囲まれていたかつてのイメージとは程遠くなってしまっているのが残念ですね。

☆私的見所

 関ヶ原の本陣となったということで一度は訪れたいと思っていました。イメージが違うとかいろいろ言っていますが、旧藩士、付近の住民の方々の保存運動によって現在もお城のある風景が見られるわけですから、その点については感謝したいと思います。

 私的には復興の天守と、昭和60年に外観復元された本丸艮櫓、本丸内に完全ではないが残る石垣が見所ではないかと思います。時間がある方は市内各所に移築されている門も見てみるとよいのでは。(私は行きませんでしたが。)

 関係ありませんが、同じ岐阜県の郡上八幡城に大垣城の天守そっくりに作られた日本最古の木造模擬天守があります。

 

※近隣・関連史跡

→戸田氏鉄の銅像へ

 

   

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