苗木城

撮影日:2004年10月14日

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01-足軽長屋石垣

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02-風呂屋門

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03-風吹門

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04-北門

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05-大矢倉北側

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07-大矢倉

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10-大矢倉、天守台

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06-北門

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08-駈門

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09-大矢倉

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11-大矢倉

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12-大矢倉

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13-大門

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14-御朱印蔵

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15-御朱印蔵

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16-二の丸、屋敷礎石

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17-綿蔵門

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18-坂下門

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19-菱櫓門

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20-本丸石垣

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21-菱櫓門

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22-天守台、菱櫓門

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23-馬洗岩

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24-本丸虎口

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25-本丸虎口

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26-本丸虎口

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27-天守台

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28-本丸からの眺め

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29-苗木城址碑

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30-本丸からの眺め

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31-笠置矢倉

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32-牢屋

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33-埋門?

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34-材木蔵

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35-竹門

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36-駈門

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37-三の丸石垣

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38-足軽長屋、龍王院

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39-本丸遠望

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40-苗木城遠望

 

☆名称(別称)

苗木城 (赤壁城、高森城)

☆所在地

岐阜県中津川市苗木

☆地図

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☆創築者、創築時期 

   (改修者、改修時期)

天文年間(1532〜55年)、遠山直廉? 創築?(諸説あり)

慶長5年〜(1600年〜)、遠山友政 改修

寛永19年〜延宝3年(1642〜75年) 、遠山友貞 改修

享保3年〜(1718年〜、) 改修

 

明治4年(1871年)、藩庁城外移転のため、建築物の払い下げ及び取り壊しを行い廃城となる

明治32年(1899年)、旧藩主遠山氏に城地を払い下げる

昭和33年(1958年)、城跡を県史跡に指定

昭和56年(1981年)、城跡を国史跡に指定

☆城主

遠山氏 - 森氏 - 川尻氏 - 遠山氏

☆遺構・復元物

本丸、二の丸、三の丸の石垣が完存(修復部分はあり)。城門が大泉寺山門として移築。国史跡

☆一言歴史

 苗木城の創築については諸説あるらしく、岩村城主遠山景友の子直廉が天文年間(1532〜55年)に岩村城の支城として高森山に築いたというのが一般的な見方のようです。当時隣国信濃には小笠原氏がおり、その防衛のために遠山氏にとって非常に重要な所であったのでしょう。

 小笠原氏が武田信玄の信濃侵略によってその勢力が衰えると、今度は尾張の織田信長との間に置かれることとなり、遠山氏は一難去ってまた一難という感じでした。当時の苗木城主勘太郎は信長の妹を妻に迎えて信長の勢力下にありました。

 その後、元亀3年(1572年)に信長と信玄が手を切ると、激しい戦いが行われ、宗家岩村遠山氏は信玄の武将秋山晴近に岩村城を奪われるが、苗木遠山氏はよく守り通しました。しかし、天正2年(1574年)には秋山氏の援護をした武田勝頼に攻め落とされてしまいます。翌年には織田信忠によって岩村城の秋山晴近が討たれ、苗木城は遠山氏のもとへ返ってきましたが大変な苦難を強いられています。

 天正10年(1582年)に信長が本能寺で明智光秀に討たれると、苗木遠山氏は徳川家康についていましたが、家康が豊臣秀吉と和睦し、臣従することになったため、天正11年(1583年)苗木城は森長可のものとなり苗木遠山氏は城を失いました。

 

 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、城を失って家康のもとにいた遠山友忠は子の友政とともに東軍として戦い、自分たちの城苗木城を攻め取って、家康より1万石を与えられました。

 以後、明治に至るまで遠山氏が1万石という最少の石高で城主であり続けました。

☆私的見所

 こりゃ凄い。と初っ端から感動していました。建築物こそ何もありませんが石垣はほぼ完存していて、かつ石垣の中には自然の石が埋め込まれていて、城というより砦だなという印象でした。

 行く前に、岩村城とどちらに行こうかと悩んだのですが、高速のインターから近いという理由で苗木城に決定したのでした。次は岩村城にも是非行きたいと思います。

 見所は、もちろん苗木城のある高森山にもともとあった岩石を巧みに取り入れた石垣です。

 

※近隣・関連史跡

 

 

   

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