一乗谷復原武家屋敷・一乗谷城(館)

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01・武家屋敷裏の井戸や厠

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02・一乗谷復原武家屋敷遠景

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03・武家屋敷内部

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04・復原された町並

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05・復原された町並の裏側

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06・屋敷内部

撮影日:2004年5月1日

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07・諏訪館付近

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08・諏訪館付近

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09・石垣

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10・館跡

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14・一乗谷館唐門

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11・諏訪館跡

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12・諏訪館跡の庭園

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13・土塁

 

☆名称(別称)

一乗谷城 (一乗谷館、一乗城)、一乗谷復原武家屋敷

☆所在地

福井県福井市城戸ノ内町・安波賀町

☆地図

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☆創築者、創築時期 

   (改修者、改修時期)

文明3年(1471年、朝倉敏景) 創築?

☆城主

朝倉氏

☆遺構・復元物

石塁、土塁、堀、郭、城門、復元館など

☆一言歴史

 朝倉氏はもともと越前の守護大名でしたが、他の戦国大名同様に室町幕府の権力が弱体化したころ戦国大名となります。朝倉氏は弱体化した室町幕府から協力を求められるほどの財力を蓄え、また実力を持っていました。

 朝倉氏の最盛期は孝景の子義景の時です。しかし、時は戦国時代です。尾張の織田信長が今川義元を破って、破竹の勢いで上洛を目指していました。義景も京を追われた足利義昭をかくまっていたまでは良かったのですが、上洛の機会を失ってしまいます。(上洛する気が無かったとも思えますが・・・)

 その間も信長は、美濃、伊勢と攻略していき、ついに義景のところにいた足利義昭を従えて上洛を果たします。信長は義景にも上洛を命じますが、北陸の名門という意識からか義景はそれに従わず近江の浅井長政とともに反抗を企て信長を挟み撃ちにしようとしました。信長は妹婿である長政の謀反にあい潰滅の危機に瀕しますが木下藤吉郎を殿(しんがり)にして撤退、九死に一生を得ます。

 その4年後の天正元年(1573年)、体制を立て直した信長に攻められ義景は自刃し名門朝倉家は滅亡、一週間後には浅井長政も自刃し浅井氏もまた滅亡します。

☆私的見所

 福井城から越前大野城に向かう予定でしたが、その途中で標識を見つけてしまい、通りがかりにちょっとだけ寄っていこうと思ったのですが、思いのほか広範囲にわたって町並みが復元されていました。本当は山頂の方にも行きたかったのですが夕暮れが近づいてきたため今回は断念しました。遺構は多く、町並も復元されていますので大変見所は多いです。

 

※近隣・関連史跡

→福井城へ

→丸岡城へ

→越前大野城へ

 

   

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