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01・米沢城での鷹山その1 |
02・米沢城での鷹山その2 |
上杉鷹山 (うえすぎようざん、直松、治憲、従四位下、弾正大弼、侍従) ・・・宝暦元年〜文政5年(1751年〜1822年)
「為せば成る 為さねば成らぬ 何事も 成らぬは人の 為さぬなりけり」で有名な上杉鷹山の銅像です。
上杉鷹山は、宝暦元年(1751年)に日向高鍋藩主秋月種美の二男として高鍋藩の江戸屋敷で生まれました。宝暦10年(1760年)に10歳で9代目(注1)米沢藩主上杉重定の養子となり、元服して「治憲」と名を改めました。
以下便宜上「鷹山」で統一します。
明和4年(1767年)に、重定が隠居したため、17歳で10代目米沢藩主となるのですが、当時の米沢藩は、重定が幕府に領地を返上しようとするほど破綻寸前でした。借金は実に20万両にも達し、1年間の藩の収入で利息すら返済しきれないほど膨れ上がっていました。
当時の米沢藩は石高が15万石で、藩士がおよそ6000人ほどもいました。これは、70〜80万石位の大名と同じくらいの人数です。上杉家では、関ヶ原の戦後処理において会津120万石から米沢30万石と4分の1に領地を削られたにもかかわらず、家臣の召し放ちを一切行わなかったことで、非常に厳しい領国経営を余儀なくされました。
さらに4代目の綱勝が急逝した際には、後嗣を用意することすらできなく、会津の保科正之の計らいで何とか吉良家から養子を取ることで何とか取り潰しは免れましたが、その代償に禄高を半分の15万石とされてしまいました。
会津の時の実に8分の1の禄高ゆえ、年月が経つにつれ借金は増える一方なのでした。当時新しい鍋の金気を取るには苦労したらしいのですが、下世話では、「鍋の金気を取るには『上杉弾正大弼』と書いた札を入れておけばいい」とまでいわれていたのでした。
このような状況で鷹山は10代目の藩主となるのです。早速鷹山は大倹約令を中心とした藩政改革を行うのですが、鷹山の素晴らしいところは、倹約のみではなく、殖産興業を推進し実践させたことではないでしょうか?それによって、人口が増え、藩の収入も大幅に増え、借金も瞬く間に返済できました。面白いのは、人口を増やすために早婚を奨励し、そのために養育手当(!)まで支給していたことです。
そして、東北地方で多くの餓死者を出した天明の飢饉(天明2〜7年、1782〜87年)では、米沢藩においては一人の餓死者も出さなかったことが伝えられています。これは、その前にあった宝暦5年(1755年)の飢饉で4000人もの餓死者を出したことを省みて、備蓄を行ったことで防ぐことができたのです。
結局、倹約するだけでは収入は増えないのですから(←私は倹約すらできていないが・・・)。このあたりが松平定信などとは決定的に違うところでしょう。もちろん現在の政治家は論外!ですね。鷹山の本でも読め!と言いたくなります。
話を元に戻しますが、ここに至るまでの道のりは容易ではなく、藩内の旧臣達の反発もあり(いつの世も同じなのか?)鷹山の改革はなかなか思うようにはかどらなかったといいます。そのあたりは、書籍がたくさん出ていますのでそちらを読んでほしいです。
(注1)
米沢藩では藩祖を上杉謙信としているため、謙信が初代で景勝は2代目ですから、重定は9代、鷹山は10代ということになります。実際にはそれぞれ8代目、9代目です。
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