2005年7月23日の高山右近像 以下の写真はクリックすると大きいサイズになります。 |
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高山右近 ・・・天文21年〜慶長20年(1552年〜1615年)
(たかやまうこん、高山飛騨守の長男、彦五郎、友祥(ともなが)、長房、南坊、等伯、洗礼名ユスト(ジェストとも)。妻は織田信長の娘・永姫。)
高岡城(富山県高岡市)での高山右近像です。
個人的なイメージとしては、前田利家や利長に仕えていて、金沢城や高岡城の縄張りをしたという名築城家&キリシタン大名といったところですが、武将としても一流であったことはよく知られていることですね。
織田信長軍の武将であり、摂津高槻城主でした。父飛騨守(洗礼名ダリヨ)の影響によって、12歳の時にキリシタンの洗礼を受けることになります。洗礼名はユストでした。高山一族は永禄年間のうちにほとんどが洗礼を受けたようです。ちなみに父飛騨守は、あの松永久秀に仕えていて、もともとは法華宗であったとのことです。
また、高山父子といえば、和田惟政に仕えていた時に荒木村重らとの戦いにおいて、摂津高槻城を父子で死守したことは結構有名ですね。父子共々武勇にも優れていたようです。
信長死後は、豊臣秀吉の四国・九州攻めに従軍しますが、天正15年(1587年)に伴天連追放令が出たために追放され、前田利家・利長に仕えています。利家・利長父子には信頼が厚く、金沢城の修築や高岡城の縄張りを任されています。金沢ではキリスト教の布教に努め、教会を設立しています。
慶長17年(1612年)にキリシタン禁教令が出されたことにより国外追放となり、マニラで死去しました。
死ぬまでキリシタンであることに誇りを持ち、波乱万丈な人生を送っていることが、とても印象深い武将ですね。金沢の教会にも銅像があるようですので、機会があれば会いに行ってきたいものです。
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