最上義光

 

山形城の最上義光像

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最上義光    (もがみよしあき、従四位上、出羽守、左近衛権少将)    ・・・天文15年〜慶長19年(1546〜1614年)

 

 このたびサーバー容量アップということで、写真を800x600サイズにして、写真枚数を増やしてみました。内容的には変わってませんm(_"_)m。

 山形の祖、最上義光です。戦国武将として非常にカッコイイ姿で、今まで見た銅像の中で個人的に一番好きですね。

 

 最上氏は奥州探題の斯波兼頼(しば かねより)を祖とし、地名から最上を姓としました。世が戦国時代になると最上氏は米沢の伊達氏と奥州の覇権をめぐって争います。最上氏のピークは斯波兼頼から数えて11代目の義光の時でした。

 

 最上義光というと、謀略や調略によってのし上がるという点で美濃の斎藤道三に似た印象を受けるのですが、歴史を探ってみると、謀略という点だけが似ているだけで、生い立ちやのし上がり方などは全く似ていないことがわかります。戦国武将にとって謀略は戦術の一つではなく、決して悪いことではありません。自らの戦力の消耗を防ぎ、かつ領地ほか利益をも得られる一石二鳥の戦術です。毛利元就なども謀略・調略使いとして有名です。

 

 なぜ毛利元就には悪いイメージがなく、最上義光や斎藤道三には「悪」的なイメージが付きまとうのでしょうか?

ちなみに斎藤家は道三の子龍興の時に織田信長によって滅亡、最上家は義光死後、義俊の時に家中内紛で57万石の大名からたった1万石の旗本のような大名格に落とされ、さらに義智の代には5千石と家名こそ残ったが高家にまで転落してしまうのでした。

それに対し、毛利家はご存知の通り、関ヶ原の戦いの論功行賞において徳川家康により中国地方9ヶ国の太守から長門・周防のたった2ヵ国に削封されてしまい、その恨みを江戸時代末期の倒幕へと注ぎます。これだけの違いで歴史から忘れられてしまい、イメージだけが生き残ってしまったのでしょう。

 

 最上義光も斎藤道三もその時代を生き残るべく、自分自身の持つ知恵をフルに活用した結果謀略を用いることが多かっただけなのに、なんか損な役回りという感じですね。

 

※関連史跡など

→山形城へ

→伊達政宗の銅像へ

 

   

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