松平定信(楽翁公)

南湖公園(翠楽苑)前の松平定信像

以下の写真はクリックすると大きいサイズになります。

→順番に見る

01

02

03

04

05

 

松平定信    ・・・宝暦8年〜文政12年(1758〜1829年)

(まつだいら さだのぶ、徳川(田安)宗武の7男(8代将軍徳川吉宗の孫)、賢丸、楽翁、花月翁、 白河楽翁、陸奥磐城国白河藩主、従四位下、越中守、左少将)

 

 一般的には寛政の改革を実行した人ということで有名ですね。

 御三卿田安宗武の子で、8代将軍徳川吉宗の孫です。白河藩主松平定邦に嗣子が無かったことから養子となりました。天明3年(1783年)、天明の大飢饉のさなかに家督を継ぎ、白河藩主となります。既に藩財政が逼迫しておりましたが、これを見事に立て直したことで、天明7年(1787年)老中首座、将軍補佐となります。時の将軍は徳川家斉でした。

 

 時代は、米を主体とした農本主義から重商主義への変換を図らなければならなかった時代で、前老中田沼意次によって重商主義政策が行われておりましたが、都市を中心に経済を発展させたものの、役人や商人による賄賂が横行し、さらに東北で多数の死者が出た天明の大飢饉によって失脚しました。

 定信は、賄賂の横行した田沼政治を一掃し、農本主義への回帰による飢饉対策を行い、旗本などへの文武奨励など成果はあったものの、あまりにも厳しい倹約政策などが反発を受けて老中を解任させられました。

 「白河の清きに魚も棲みかねて 元の濁りの田沼恋しき」

 この句からも、定信の政治が行過ぎていたことが伺われます。倹約だけではマイナスを抑えるというだけで、プラスに展じることはあり得ないということですね。このあたりは上杉鷹山の行った米沢藩の政策の方が優れていたのではないでしょうか?

 

※近隣・関連史跡

→白河城(小峰城)へ

→白川城(搦目城)へ

→赤館城へ

→棚倉城へ

 

   

inserted by FC2 system