松平容保

 

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福島県立博物館内の松平容保像

 

松平容保    (まつだいら かたもり、_之丞、祐堂、芳山、会津松平藩第9代藩主、京都所司代、正三位、肥後守、参議)    ・・・天保6年〜明治26年(1835〜93年)

 

 松平容保は、美濃高須藩主松平義建の六男として生まれました。のちに会津藩主松平容敬の養子となったことで18歳の若さで大藩の藩主となりました。美濃高須藩は3万石の六男(部屋住みの居候状態)から会津藩23万石の藩主へとなれたことから、ここまでの容保は非常に幸運でした。

 平和な世の中であったならば、容保はきっと名君であったと伝えられたことでしょう。容保にとって不幸であったのは、当時は幕末であり、世の中が変わりつつある時期でした。会津藩が徳川御三家に次ぐ第四の藩であったことも要因の一つではないでしょうか?

 

 ペリーの黒船の来航によって、日本はいつ欧米列強の侵略に脅かされるともわからないという、きわめて危険な状況に置かれていました。もう徳川幕府では欧米に対抗できないため、天皇を中心とした新しい国家を作らねばならないという倒幕論が起こりました。その倒幕論の中心となったのは、かつて関ヶ原で敗者となった長州毛利家でした。その勤王の志士が京都に続々と集まり始め、治安が大変悪くなりました。

 その京都の治安と天皇家を守るために設置されたのが京都守護職ですが、容保はそれに抜擢されます。会津藩家老の西郷頼母らの反対で一度は固辞しますが、福井藩主松平慶永らの強引な勧めで就任させられてしまいました。

 

 容保は仕方なく会津藩兵を率いて京都へ上洛しました。それに加えて江戸で集められた浪人たちが幕府のために働きたいと会津藩に願い出てきたため、新撰組として京都の警護にあたることとなりました。新撰組は長州の勤王の志士たちを斬りまくったためその憎しみが、会津藩と松平容保に集中することになってしまいました。それでも、孝明天皇が容保を信頼していたことが不幸中の幸いでしたが、天皇の死後、事態は急転してしまいます。

 

 皇位についた明治天皇は討幕派を支持し、同志であったはずの薩摩藩が、坂本龍馬によって長州と同盟を結んでしまいました。しかも、将軍が勤王家である水戸家出身の慶喜へと代わったことから、容保は四面楚歌の状態になってしまいます。

 慶喜は鳥羽伏見の戦いが起こったとき、朝敵となってしまうことを恐れ大阪城から江戸城へと逃亡してしまいました。このため、その矛先が会津藩と容保に向かってきました。容保は将軍が引き下がった以上は、官軍と戦う気は無かったとなかったそうですが、官軍は容保らを許さなかったため、やむなく戦うこととなってしまいました。

 本来であれば、慶喜が狙われるべきだと思いますが・・・新撰組が勤王の志士たちを斬り過ぎてしまったんでしょうか?。

 

 戊辰戦争では奥羽越列藩同盟の中心として官軍に抗戦して篭城戦を行います。1ヶ月後降伏して因幡鳥取藩に預かりの身となり、会津藩は陸奥斗南藩へ領地替えとなります。容保は東京に移されたあと預かり処分が解かれて日光東照宮宮司に就任し、さらに上野東照宮祠官などを兼務します。

 

 明治26年(1893年)、58歳で逝去。波乱の人生でした。

 

※近隣・関連史跡

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