金森長近

 

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01・高山城旧二の丸の金森長近像(正面)

02・高山城旧二の丸の金森長近像(側面)

 

金森長近    (かなもりながちか、五郎八、可近、飛騨守、兵部卿法印)    ・・・大永4年または5年〜慶長13年(1524・1525〜1608年)

 

金森長近というと、私は武将というイメージよりも茶人のイメージの方が強いのですが、高山城での長近の姿は戦国武将らしい姿でとても格好いいですね。幼少時及び通称は五郎八、初名は可近でしたが、織田信長に仕えるようになってから一字賜って長近と改めたようで、赤母衣衆の一人として仕えていました。

 

目だった武功が見えてくるのは天正元年(1573年)の越前侵攻辺りからで、天正3年(1575年)の長篠の戦い、再度越前の一向一揆衆との戦いにおいても功をあげているようです。これにより大野郡を拝領し、大野城を築きます。

 

天正10年(1582年)、信長が本能寺で横死した後に起こった賤ケ岳の戦いにおいては佐久間盛政につき秀吉方と対抗したものの敗戦、蟄居させられ後に赦されています。

天正13年(1585年)には佐々成政攻めに参加、成政降伏後にはそのまま飛騨の三木氏を攻め降伏させます。その功によって飛騨を拝領し、高山の古城を改築し入城します。高山の町づくりは長近のころといわれています。

このように数々の戦に出陣する傍ら千利休、古田織部に茶道を学び、茶人としても一流の武将でした。

 

その後関ヶ原の戦いにおいては東軍につき加増、6万石となります。慶長13年(1608年)に84歳の長寿を全うしました。

 

ちなみに金森長近の銅像は越前大野城にもあるようなので、行って再度会ってきたいと思っています。

 

※関連史跡など

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