支倉常長

 

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支倉常長   (はせくら つねなが、与市、六右衛門長経、洗礼名:ドン・フィリッポ・フランシスコ)    ・・・元亀2年〜元和8年(1571年〜1622年)


 伊達政宗の命で、慶長遣欧使節団を率いてヨーロッパまで渡航した支倉常長像です。仙台城大手門脇にありました。

 

 常長は、山口常成の子で伊達政宗の家臣です。幼名を与市といい、伯父支倉時正に子がなかったため時正の養子になりました。のち、時正に子が生まれたため、分家となります。

 慶長18年(1613年)常長は、政宗の命で通商交渉を目的として遣欧使節団を率いて、メキシコ、スペイン、イタリアと渡航します。名目上は通商でしたが、本当の目的は、当時世界最強国家であったイスパニアを味方につけ、天下を覆そうという政宗の計画が秘められていたといいます。確固たる史料が残っているわけではないので、あくまでも推測ですが。

 常長は、慶長19年〜20年(1614〜15年)にかけてローマ教皇パウロ5世、イスパニア国王フェリペ3世に謁見しますが通商交渉は成功せず、元和6年(1620年)に帰国します。しかし、日本はキリシタン禁教令が出されており、キリシタンの洗礼を受けた常長はひっそりと暮らしていたらしく、帰国後どのような日々を送ったのかは知られていません。寛永17年(1640年)息子の常頼が、召使いがキリシタンであったことの難癖をつけられて処刑され、支倉家は断絶しました。

 

 元和元年(1615年)に大阪の陣で豊臣氏が滅びてしまい、虎視眈々と天下統一を伺っていた政宗は、その野望を断念していました。既に天下は徳川家康のもので、家康に臣従した政宗には、その野望の証拠でもある常長は邪魔になり、さらに洗礼を受けていたというのもあったと思います。

 以後、常長は江戸時代の歴史から消えてしまいます。常長の偉業が再び世に出るのは、明治維新後に岩倉具視が欧米視察でイタリアに派遣されたときに、支倉の署名が入った文書を発見したからだそうです。

 

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